名山堀ってなに?(その1)

こんにちは。
リージョン19号の特集で掲載された「名山堀」。
昭和の路地裏の雰囲気が今でも残っている貴重な商店街なのですが、
ここではその「名山堀」について、一体どこに堀があったのか、
いつ頃埋め立てられたのかを中心に数回に分けてご紹介していきます。

まずは、その1「名山堀のおいたち

名山堀の起源は、江戸時代までさかのぼります。
元禄年間(1688〜1704年)に鶴丸城の城下でしばしば大火事が発生し、
城の内部まで火事が広がってしまう事がありました。そのため、城下の火事
が城内に飛び火するのを防ぐ意味もあり、前の浜(鶴丸城下の海岸部分)
の干拓地を埋め立てて、堤防を造り、堤内に海水を引いて、小舟を繋ぐ堀を
作るという大規模な工事が始まったのです。

この工事、相当な大工事だったようです。

昭和三十年発行の「鹿児島のおいたち」(印刷は渕上印刷!)の中に、
こういう一文が出てきます。
前の浜の干潟地を埋立てゝ堤五町を築き町屋を立て堤内に海水を引いて
小舟繫泊の堀を作り、東北方に向い波戸四五十間を築き大船碇泊所とする
計画を立て元禄十四年三月幕府の許可を受け、八月普請方において着工した。
この埋立工事は大工事であつたらしく寛政元年の幕府巡検使えの答書にも
未だ竣功せずとある程であつた。・・・

ちなみに元禄十四年は西暦1701年、寛政元年は西暦1789年。
何と工事開始から90年近くたっても、まだ完成していなかったんですね!


その後、文政(1818〜1830年)年間に(安永年間とも)今の名山町南部・
泉町・住吉町を埋め立て、弘化(1844〜1848年)・嘉永(1848〜1854年)
年間に小川町を、明治5年から6年にかけて生産町(今の名山町の海岸側)
を埋め立てていきました。名山堀界隈の埋め立ては、これで一段落といえます。

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明治初めの鹿児島市街地の海岸線を現在の地形に重ねてみました(薄青の部分)。
中央の島状になっている部分を囲っているのが「名山堀」です。
市役所前の電車通りも、かつては水路だった事が分かります。
(つづく)