名山堀ってなに?(その5)

その5「名山堀界隈の変貌」
名山堀が完全に埋め立てられてから、すでに40年余りが過ぎました。
その間に、名山町界隈は劇的に変わっていきました。
旧国鉄の貨物便用の引込み線がなくなり、海岸がさらに埋め立てられ、
水族館やドルフィンポート、新しいフェリーターミナルが出来ました。
その一方で、県庁や税務署、新聞社の移転などにより、名山堀界隈を
訪れる人々の数に大きな影響が出ました。
しかし今でも、日が暮れて店の灯りが点り始めると、どこからともなく
常連客がやってきては店に入り、にぎやかな話し声が聞こえてきます。
さすがに以前よりもお客さんの数は減ったものの、仕事先が移転に
なってもわざわざ通ってくる人も多く、本当に愛されている街なんだな
ということを実感します。
昔は当たり前だった「人と人とのつながり」が現在も残っているところ
に、人は魅力を感じるのでしょう。
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昭和57年発行の「鹿児島市戦災復興誌」に、こんな一文があります。
・・・・・・逆に、当時はこれが最高と考えて処理されたことが、
今になってみると、惜しかったな、と思われることも出てくるのである。
惜しいと思うことがはなはだ主観的なので、全国的な都市機能論から
みれば論外かもしれないが、例えば、市役所前方の海岸よりにあった
名山堀」の埋め立てなどは、情緒的には惜しかったのではと思われる。
昭和10年頃の地図、また戦後23年頃までの地図には、甲突川に負けない
ほどの幅の堀が記載されている。現存されておれば、周囲の平坦な風景の
なかで、ひとつの情景として名物化していたかもしれない。・・・・・・

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近代化が進む市街地の真ん中に、ぽつんと取り残されたような一画。
まるで昭和のテーマパークのような懐かしい雰囲気を醸し出している
この地区は、ある意味貴重な文化遺産ともいえるのではないでしょうか。
名山堀」――堀はなくなってしまいましたが、古い街並みは今も残って
います。いつまでもこのままの姿で、人々の心のよりどころであり続ける
ことを願ってやみません。(おわり)
※参考文献
林吉彦『鹿児島之史蹟』(昭和5年)
伊地知四郎『鹿児島市の史蹟』(昭和12年)
『鹿児島のおいたち』(昭和30年、鹿児島市)
『鹿児島市戦災復興誌』(昭和57年、鹿児島市)
『鹿児島市内の史跡めぐり その6 中央地区(甲突川以北)』(昭和57年、鹿児島市教委)
芳即正『明治の鹿児島 景観と地理』(昭和63年)
『鹿児島市街実地踏査図』(明治45年、鹿児島県警察部)
『鹿児島市街図』(昭和2年、鹿児島市)
『鹿児島市街図』(昭和6年、鹿児島市)
土橋南江『鹿児島市街地図(実測番地入)』(昭和11年1月)
土橋兼良『鹿児島市街地図(実測番地入)』(昭和11年7月)
土橋兼良『鹿児島市街地図(訂正増補番地入)』(昭和16年)
『鹿児島市復興計画図』(昭和24年)
『大鹿児島市日本商工業別明細図之内』(昭和25年)
『鹿児島市住宅案内図』(昭和31年、住宅案内図刊行会)
『住宅案内地図 鹿児島市』(昭和38年、東京交通社)
『ゼンリンの住宅地図 鹿児島市』(昭和43年、善隣出版社)

2 Responses

  1. 名山掘エリアを愛する1人として、興味深くスタッフブログの名山掘シリーズを楽しませていただきました。堀が残っていたら「ひとつの情景として名物化したかもしれない」というう文献に感銘しました。
    いろんな文献を参照して、ブログにしてはかなり深い内容で、じっくり読めてリージョンには載せきれなかったであろう沢山の情報が紹介されてて良かったです。
    これからの鹿児島の街づくりの参考になりますね。古く長く続いた街並みの情緒は一度壊すと戻ってこないので、大事にしたいですね。今まで親しんでいた名山を歴史背景など想いながらもっと愛せるような気がします。

  2. リージョン編集部

    >kika様
    「名山掘シリーズ」最後までお読みくださり、本当にありがとうございます! こういうコメントをいただくと、ブログを書いて良かったと、心からうれしく思います。
    名山堀、調べれば調べるほどいろんな発見があり、気がつけばすっかり名山堀のとりこになっていました。
    この貴重な街並を、いつまでも残していてほしいですね。