名山堀ってなに?(その3)

その3「名山堀市場の賑わい

太平洋戦争が終わり、鹿児島港の周辺には、奄美・沖縄方面に帰ろうと
する軍人や民間人が集まってきたのですが、奄美も沖縄もアメリカ軍が
占領していたため、故郷に戻れませんでした。
そのため、これらの人々は焼け跡にバラック小屋を建て、何かしらの
仕事を始めました。
地元の人々に加え、こういった人々も「ヤミ市」に参加し、その市場の
規模は瞬く間に大きくなっていきました。当時は露店や路上の風呂敷
商売が、鹿児島駅から朝日通りの辺りまで続いていたそうです。

その後、戦後の混乱がおさまる頃には、「名山堀市場」は、鹿児島でも
最大規模の市場として、たくさんの人でにぎわったのです。実際、
ここにくれば、ほとんどの食料品・生活用品は手に入ったといいます。
また、大島航路の船がすぐ近くに接岸していたこともあり、物資の
受け渡し場としても重要な拠点でした。

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19号特集で紹介した「のり子」をはじめとする飲食店が軒を連ねる
新町通り飲食店街」の建物も、この頃(昭和24年)に建てられています。
築60年を経て今もなお現役、名山堀の歴史を見守ってきた生き証人とも
言えるでしょう。
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これらの建物は、一見2階建てのように見えます。
しかし、よく見ると2階の上にさらに窓のついた外壁がありました。
どうやらこれらの建物は、3階建てのようです。
やがて、昭和26年頃に市役所前から海岸に向けて幅50メートルの広い道路が
整備され、その中央部にフェニックスが植栽されました。この道路は、
その後の昭和30年に一般公募により「名山通り」と名づけられました。
そして、平成3年に再整備する際、「みなと大通り公園」という名称が
使われ、現在にいたります。

こうして戦後のめざましい復興とともに、名山堀の周辺の様相も一変します。
この頃から、堀の埋め立てが段階的に進んでいきます。(つづく)